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ドアを叩く。
「姉ちゃん、ちょっと話あるんだけど」
「ん」
ドアを開ける。姉はゲームをしていなかった。
「忙しいんじゃなかったの?」
声に刺がある。子どもみたいだ。
「話があるんだ」
姉の前で座る。ドラマだったらこの辺りで音楽が止むだろう。
「私も言いたいことあるのよ」
目で負けたと悟ったが、諦めたら終わりだ。
「先に俺の話を」
「私の話を聞け」
遮る能力が高すぎる。俺の遮られる能力が高いのかもしれない。
「・・・はい」
結局諦めた。成長が見られない。俯く。


・・・違う。今から俺は変わるのだ。そうだ。
そう決意して顔を上げる。姉の口が開いた。
「あんた最近ちょっと生意気」
反撃するよりも、ここは甘んじて受けた方が良い。
面接の試験のように、姉の顔を見るよう心がけた。怯むかもしれない。
「さっきだってせっかく私が誘ってるのに帰っちゃうし」
彼女であったら今すぐ抱きしめて謝る。が、姉だ。
「パンツくれとか言ったり」
あの時俺は俺じゃなかったのだ、と言っても、しかし通用しないだろう。
「昨日だってパンツまで渡してあげたのにオナニーしないし」
「・・・あの、そのことで」
これ以上黙っていると完全にいかれる。ここで攻めねば。

「何?パンツ欲しいの?お姉ちゃんの舐めたいの?」
「ちが・・・」
「素直に言いなさいよねー。童貞のあんたが可哀相だと思って言ってあげてるんだから」
だめだ、もう止まらない。
「溜まってるんならはっきり言いなよ?パンツはいつでも貸したげるから」
「こないだ飲みに誘ったときも酔わせてホテル行こうとか考えてたんでしょ?」
「弟に欲情される身にもなってよね、全く…あー怖い怖い」
もっと言っていたような気がするがもう耳に入らなかった。
耳と脳がわき上がる怒りに遮断されてしまっている。
「だからあんたは」
「いいから俺の話を聞け!!!」
姉が黙った。深刻な表情。もう知らん。

俺もしばらく話さなかった。戦略とか心理とか、考えられなかった。
少し頭が冷えて、安価通りに切り出す。
「姉ちゃんさ、何で俺のオナニー見たからって自分のオナニー手伝わせんの?」
姉は眉を潜めて目を反らす。
「何でもいいじゃん」
苛立つ。俺の青春を潰しておいて。
「ちゃんと答えろよ」
「一こそ何で手伝ってるのよ」
一というのは俺の名前だ。はじめと読む。姉がいるのに何故一なのかは後で。
「脅されてるからだろ。いいから答えろよ」
「言いふらしてもいいの?」
ふ、まだそれが通用すると思っているのか。甘いよ沙希ちゃん。
「バラしたいならバラせよ。いいから答えろ!」
ここまで言えるのはなんだか異常だ。何か憑いているのか。
V I P。そうか、これがVIPクオリティか。
姉はしばらく躊躇っていた。
「……気持ちいいから」

………へ?


「何?」
「自分でするよりしてもらった方が気持ちいいから」
姉は俺の顔を見ていない。俺も見られなくなった。
「…弟の俺に?」
質問されるのは嫌だったらしい。姉の耳が赤い。
「一こそ私のパンツでオナニーしてたくせに」
「あれ一回だけだよ」
冷静に数で攻めると怯んだ。過去の事実を有効利用できたのは初めてかもしれない。
「ふーん。私のまんこ舐めてちんちん起たせてるくせに」
「関係ないだろ」
明らかに優勢だ。顔を直視する余裕も生まれる。
「一も本当はしたいんでしょ」
「したくねーよ」
はじめには こうかが ないみたいだ…残念だったな。
「意地はるなよ」
「したくねーよ!!姉ちゃんなんかとしたいわけないだろ!」
なんか、というのが効いたらしい。俯く姉。俺は黙ってつむじを見ていた。
「……そんなに…嫌だった?」
情緒に訴えるつもりだろうか。返事はしない。
「そんなにお姉ちゃんのするの、嫌だった?」
「嫌だったね」
はっきりとは見えなかったが、姉は歯を食いしばったようだった。
罪悪感は不思議に無かった。高揚していた。
このまま行けるところまで行こう。今ほどいい機会もない。
「大体、姉ちゃんって俺のことどう思ってるの?」
追い撃ちだと分かっているのか、姉は口を噤んだままだ。
「ちゃんと言ってくれよ」
「どうだっていいでしょ?」
はぐらかすのは許さない。俺はこれ以上ないほどに真剣だ。
「真面目に聞いてるんだよ」
姉が俺を見据える。いつもとは異なるが、強い睨み。
「うるさいわね、一は私の言うこと聞いてればいいのよ」
自分が言ったわけでもないのに、終わったな、と思った。
自分の中で、まるで画面の向こうにいるように冷静な自分が思ったのだ。
「そうかよ」
姉は俺を睨み続けているが、これ以上言えないようだった。
「分かったよ、姉ちゃんはそう思ってるんだな」
冷静な自分も、敢えて何も言わないことにしたようだ。
冷静でない自分は、もはや信号を受け取るつもりもないようだった。
立ち上がる。駆け出す。思い切りドアを閉める。
階段を駆け下りる。玄関を開ける。冷たい空気も、意味を成さない。
姉の叫びが頭をかすめた気がしたが、それをも振り払うために走った。
立ち止まると、一気に体に冷気が染みこんだ。



風があまりに冷たい。目に付いたコンビニに入った。
客の一人と目が合った。すぐに反らされた。
そのとき、初めて自分の状況を把握できた。
部屋で着る、気合いの足りない服装。
財布もない。携帯もない。
この社会で、今の俺は到底生きられない。
落ち着くために雑誌を手に取る。
内容など頭に入らなかった。ゴム人間がこの先どうなろうと、どうでもいい気がした。
呼吸は穏やかになったが、やはり携帯がないのは痛かった。
あいつらに頼りたい。俺一人では、やっぱりこんなだ。
めまぐるしく入れ替わる客の中にずっといるのは気が引けた。
寒さを覚悟して外に出た。
骨に、内蔵に、直接攻め込むように吹く風。
誰もいないベンチを見つける。足も疲れた。座る。
今後の対策を練ろうにも、俺には何もない。
気を紛らわせるものもない。月も星もない。暗い。
街灯の周りを小さな虫が二、三匹旋回している。
それを見ながら、時が流れるのを待った。
が、そういう時ほど針は動きを緩める。
本格的に凍えそうになってきた。
選択肢は一つしかなかった。とても屈辱的な道しか。
大きくため息を付いて、立ち上がった。
虫はまだ飛び回っている。家に向かって歩いた。




流石にただいま、なんて言えない。
できるだけ物音を立てないように、部屋に戻った。
まだあいつらは待っていた。一通り報告していると、脳が覚めてきた。
姉の部屋からは何も聞こえない。いないのだろうか。


 296 :もう一度姉ちゃんとこに突撃してこい。
 たぶん姉ちゃん泣いてると思う。

にわかに不安になる。気まずいだろうが、姉の様子を見ることにした。
ノックしても返事がない。ドアを開けると、誰もいなかった。
また頭がこんがらがってくる。俺を捜しに行ったのか?
母はもう寝ていた。聞くと、知らない、と眠そうな声が帰ってきた。
もう一度姉の部屋に行く。二つの携帯が、仲良く並んでいた。
靴も、スニーカーが無かった。ほぼ間違いなく、姉は俺を捜しに行ったのだろう。
スレに書き込んで、家を出た。どこにいるだろう?
脳内で地図を張り巡らせていると、視界に姉が入ってきた。


姉は、小走りで左右を見ていた。
「姉ちゃん!!!」
姉が振り向く。速度を上げる。寒さは気にならなかった。
「ねーちゃーん!!」
姉も駆け寄ってくる。はっきり、顔が見えた。目が赤い。
「姉ちゃん…」
「一…」
夜の住宅街で、膝に手を突いて向き合う姉弟。
息を整えるのに苦労する。息が白い。
姉が姿勢を正したかと思った瞬間、頭に拳が飛んだ。
「ぅ…ぉぉ…」痛い。寒いから余計にだ。
姉は何も言わなかった。頭を抱えていると、体を姉が包んだ。
「どこ…行ってたのよ…あんたは…」
鼻をすする音。姉は泣いていた。
小さな声で、姉が叱る。肩越しに、雲から月が見えた。


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